氷見に伝わる伝統芸能『氷見獅子 』

こんにちは、ふるさとワーホリスタッフの守山です!!
氷見に来て2週間、食や自然など来る前から想像していた田舎暮らしのいい所は随分と堪能させていただきました。
 
ただ、もう一つ筆者が田舎のいい所としてイメージしていたものがあります。
それが文化や祭りです。もちろん都心でも盛んな地域はありますが、田舎の方が土地特有の伝統芸能が継承されているイメージがあり、探してみると氷見でも古くから伝わる文化や祭りが複数ありました。
今回はその中でも、最も氷見でメジャー?な伝統芸能『氷見獅子』を鑑賞させていただいたので、その様子をお伝えします!!
 
その前に、氷見の獅子舞について説明すると、、、
・一説によれば江戸中期から広まったと言われており、大漁と豊作を祈願する春と、豊作に感謝する秋に開催されている。
・天狗が獅子を退治するというストーリーで、笛や太鼓を用いた独特の囃子方や囃子を乗せる太鼓台が立派な点が氷見獅子の特徴。
・獅子舞の中(獅子胴)に5.6人を要する百足獅子である。
 
などといった特徴があります。
まあ簡単に言うと、「めちゃくちゃ歴史あるしいろんな特徴あるよ!!」ってことです。現在も市内100を超える地域で継承されていることからも、いかに獅子舞が盛んな地域かということがわかります。
 
 
今回は、市役所の戸田さんのご厚意のもと、阿尾(あお)地区の獅子舞に同行させていただきました。
(こちらのいかにも優しいおじさまが戸田さん。)

 
 
 
筆者が阿尾に到着したのは朝の7時半頃。
すでに地元の人たちが沢山集まっており、なかなかの賑わいをみせています。こんなに朝が早い祭りは初めてです。

 
まずは、かつて山城であった阿尾城跡に鎮座する榊葉乎布(さかきばおふ)神社でお祓いを受けます。
お祓いを受けたら神輿と太鼓台を山の上から降ろしてきて、祭りがスタートです!!
威勢のいい囃子が、周囲に響き渡ります。

 
ここから巡行が始まり、神輿と太鼓台を引きながら班長さん宅や阿尾地区の会社を丸一日かけて回ることになります。
太鼓台はかなり大きく、近くで見るとなかなかの迫力です。

 
軽快な囃子を響かせながら、一行は有磯海をバックに街を練り歩きます。

 
ちなみに、この黄金の神輿は毎年出すものではないと戸田さんから教えていただきました。
今回は令和最初の祭りということで20数年ぶりの披露になったんだとか。これで100キロくらいあるっていうんですから驚きです。
 
 
出発してから10分ほどで最初の目的地に到着。
ご挨拶をしたのちに、お待ちかねの獅子舞が登場です。

 
囃子がまた一段とリズミカルになり、青年団から「イヤサー、イヤサー」の掛け声がかります。それに合わせ全長5メートルはある胴長の獅子がうねるように舞います。
 
筆者は一人で完結するタイプの獅子舞しか見たことがなかったので、衝撃です。そして、獅子もさることながら対峙する天狗の踊りには見惚れてしまうほど躍動感に溢れています。

 
最後まで舞い終わるとこの場所での披露は終了となり、また巡行へ。
これを一日中やるんだから、皆さんの体力には恐れ入ります。
体力に有り余る不安を抱える筆者は再度夜から参加させていただくことにしました。
 
 
ということで時刻は19時。
阿尾を再訪すると、灯りのともった太鼓台の周りに沢山の人が集まっています。
正直、獅子舞の演目はほとんど変わらないので朝に見たものと大差ありません。ただ、夜の方が地元の人も多く、祭り感があります。

 
朝と変わらない青年団の「イヤサー」にはすごいなあと思いつつも、元青年団のおじさま方はもうお疲れのようでした。ちなみにこの青年団、基本的には18~25歳の方が入るものらしいのですが、今は中学生や25歳以上の方も入っているそう。
 
「今は獅子舞の担い手も減ってきているからね。」と聞き、よそ者ですが少し寂しい気持ちになりました。

 
さて、ここでの演目も終え時刻は19時半。この後は公民館でご飯を食べるとのことで、朝と晩しか参加してない筆者ですら「やっと終わりか。」と思ったのですが、ご飯を食べた後にまだ巡行するそうです。
 
「日付が変わるくらいまでやるんじゃないかな。」と笑っておっしゃっていましたが、明日も仕事の筆者はこの辺でお暇させていただきました。

 
 
飛び回る天狗ともはや獅子のサイズではない獅子舞の演武
一見の価値ありです!!まだ、氷見獅子を見たことがない方は、是非氷見を訪れてみてはいかがでしょうか。
 
ちなみに獅子舞は一年中やっているわけではありませんが、市内には獅子舞ミュージアムなるものがあり、少しでも氷見獅子の雰囲気を感じたい方はこちらもおすすめです。

 
 
 
さて、氷見の文化的側面にも触れることができたところで、筆者(ワーホリスタッフ、守山)の氷見暮らしも本日が最終日です。短い期間でしたが、お世話になった氷見の皆さんありがとうございました。
 
 
最後になりますが、氷見は贔屓なしに移住したくなる街なんじゃないかなと感じました。というのも氷見は、(少なくとも筆者の考える)田舎の良いところを網羅しています。
海と山双方の自然があり、それに付随して食も充実している。また、これだけ恵まれた風土があるため獅子舞のような伝統芸能や地産地消の文化も根付いている。
 
田舎といっても千差万別で、本当に山奥でコンビニが一切ないところや自然や食に恵まれないベッドタウンもあるわけです。あくまで筆者の感性によるものですが、そういった街に比べて氷見は、面白いコンテンツを数多く持っている魅力的な田舎だと思います。

 
また、氷見には人口減少や過疎を本気で変えようと行動している人間が沢山います。マルシェを開いて若者を呼び寄せる人、色々なものに触れてもらおうと演劇を企画する人、全国からIUターンして起業する人、、、
 
氷見の自然や食事、文化も好きですが「氷見を盛り上げよう!!」としている人間の存在そのものが氷見の良さなんじゃないかなとも思いました。

 
短い期間でしたが、これだけ魅力ある街と人たちに囲まれて暮らせたことに感謝しています。
また、稚拙な文章を読んでいただきありがとうございました。
次に来るときは、氷見がどんな街になってるか楽しみです。
また来ますね。

激アツ!氷見夏の大イベント『祇園大祭』

こんにちは!地域おこし協力隊の野口です!

7月になると氷見にもあついあつい夏がやってきました!
しかしあついのは気温だけじゃありません。そう!こころもあつくなる祭り!
今回はあつい夏のお祭り『祇園大祭』に移住者として初参加したレポートです!

まず『祇園大祭』についてご説明を。

『祇園大祭』の由来は『―およそ300年前に氷見町一帯を襲った悪病の退散祈願のため、悪病除けの神として京都八坂神社から祇園神の分霊を迎え、平癒祈願を行ったところ、悪病が治りました。
これに感謝して神輿に祇園の神霊を奉還し、御座町町内を巡行したことに始まる―』とあります。

詳しくは昨年、先輩移住相談員の藤田さんがまとめた記事がありますので、こちらもご覧下さい!
氷見・夏の風物詩 『祇園大祭』参加録

それでは僕の初体験となる『祇園大祭』に参加してみての感想を、お伝えしていきたいと思います。

一日目、僕が参加している町内では太鼓台を日宮神社までひいていきお祓いを受け終了です。
この日南十町ではすでに曳山や太鼓台をひいており、商店街のメイン通りにも屋台がたくさん並びにぎわっていました。


いい雰囲気ですね〜
曳山に灯る提灯の明かりや屋台の明かりはとても風情がありますね。


太鼓台をとめて休憩している方々。
お疲れさまです。僕は明日に備えて早めに寝ることとします…!

そして次の日はお昼前から太鼓台の飾り付けを完成させるところから始まりました。

飾り付けが終わり、12時に日宮神社に北六町の太鼓台が集結し、いざ出発です!


「イヤサー、イヤサー」と掛け声をかけあったり優雅な笛や力強い太鼓の音色にあわせて、ゆっくりゆっくり太鼓台をひっぱりながら町内を回っていきます。


道幅が狭いところや坂道もみんなでがんばって太鼓台をひっぱります。

夕方頃になると人もかなり増えてきました!

太鼓台をひきながら家々をまわっていると次第に暗くなってきました。


提灯や行燈に火を灯すといい雰囲気に!
体は疲れを感じていますが、こころは楽しくなってきます!
やっぱり夜に町が人でにぎわっているといいですよね〜

ということを思いながら進んでいると氷見ラーメンのお店の前で、先に進んでいた町内の太鼓台が1台ずつ「イヤサー、イヤサー」という大きなかけ声とともに太鼓台を横に大きく揺らし始めました!

どうやら奉納金か何かを頂くと、お礼のお祓いのようなものを行うようです!


写真だと少し伝わりづらいですが、すっごく横に揺らしています!傾く時に片側の人が浮いています!!

順番に行われている激揺らしを眺めているといつのまにか自分たちの番。
力加減やタイミングなどよく分かりませんがとりあえず流れに身をまかせます!

感想は、めっちゃ重い!(支えるとき)
めっちゃ浮く!(傾けるとき)
です!笑

正直倒れないギリギリでやってるのは本当にすごいなと感じました…。

そして町内もまわり終わり、終点の日宮神社に向かいます。
するとぞろぞろとたくさんの人が集まっていくではありませんか。
このとき僕は最後に「けんか」と呼ばれる何かをするらしい、ということしか知りませんでしたが、それを見にみんなが集まっている事が分かりました。


す、すごい人です!
氷見でこんなに人が密集するなんて!という感じです!
普段は歩道を歩いているおじいちゃんおばあちゃんがちらほらという商店街に、この時だけはとてつもない人が集まっています!

最後に太鼓台を日宮神社の中までひいていきお参りをすませると、どうやら「けんか」というものを行うようです。

そしてここからは驚きと動揺で写真を撮り忘れていたので、文章でご想像下さい。

最初に別の町内のけんかが行われるようで、お手本としてその様子を見てみることにしました。
まず「イヤサー、イヤサー」の大きなかけ声をかけながら太鼓台を横に激しく揺らして、、、

笛の合図でお互いの太鼓をどーんとぶつけました!

すると今度は太鼓台の上によじ上ったひとが飛び交いお互いの太鼓台中心に立ててある松の木を折り合っているではありませんか…!!
振飛ばされている人もいます!

そしてある程度折り合ったら離れて終了。

そう、このとき「けんか」がどういうものか初めて理解しました。
うーんこれはやばそうだ笑
ただお客さんは大盛り上がり!

そうしていると今度は自分達の番。

これはもういくしかありません!!笑

「イヤサー、イヤサー」と叫びながら太鼓台を大きく揺らして、、、
太鼓台をぶつけます!
どーん!

このとき僕は太鼓台の斜め後ろくらいから押していましたが、さらに後ろから押されるは、上から人が落ちてくるはのもみくちゃ状態に。

そしてすぐに笛が鳴って離れることになり、もう一回繰り返して自分達の番は無事終了となりました。

や、やりとげました〜。
まさかこんなに激しいとは思いませんでしたが、お客さんはとても楽しんでいるようでした!
僕も最初は見る側で参加したかったですね笑

ただ人生でここまで激しいお祭りを経験したことはなかったのでとても貴重な思い出になりました。体験してみて、このお祭りは本当に見る価値ありだと思いました!
まだ見たこと無い方はぜひ!

博物館企画・むかしの氷見をあるく

自分の住んでいるまちが昔はどういう姿だったのか、みなさん知っていますか?
この道は昔から残る道、こっちは新しい道、いつも前を通るあの建物は昔の米蔵、川沿いのここは漁業で獲れた魚の上げ場だった、、、。
普段の生活の中では気づきにくいですが、昔のまちの痕跡は実は結構残っているんです。

 

博物館学の芸員さんのガイドと共に氷見市街地を歩きながら、過去の風景を想像できる「むかしの氷見をあるく」。氷見市立博物館さんが企画されたイベントで、江戸時代編、室町・戦国時代編、古墳時代編、縄文・弥生時代編の4回のコースに別れています。
今回は江戸時代編に参加して、まちの昔の姿を教えてもらいました!

 

 

朝9時30分、集合場所の氷見市立博物館へ。この日の案内役は学芸員の小境さん。氷見市には小境という地名があって、自己紹介だけで勝手に氷見の歴史講座っぽさを感じてます。

 

実際にまちを歩く前にまずは座学から。博物館内で、江戸時代に描かれた絵や地図を見ながら現在までの成り立ちを大まかに説明していただきます。
「江戸の地図でいうとここ、今は商店街の〇〇屋さんのところですね」と地元の人ならすぐにピンとくる説明で、当時“まち”として成立していた南10町北6町について、氷見市街地の成り立ちで欠かせない「昭和13年の大火」についてなどを教えていただきました。

 

実は私、学生の頃は歴史が一番苦手で今回のイベントも話についていけるか心配だったんです。ですが小境さんの軽快で分かりやすい話し口に、歴史というより物語を聞いている感じになり、早くまちを歩きたい!とワクワクしていました。

 

 

地図で当時の様子を見た後は、実際にまちを歩きに行きます!
この日は歴史好きそうな男の子とお母さん、お一人で参加されているお姉さん、地元のおじさんおばさんなど10名ほどが参加していました。

 

まずは大事な、まちを歩く時のコツ。「資料に即して、想像力を膨らませる」当時はどんな様子だったのか、好きに妄想するのではなく資料に即して、そして持ち得る限りの想像力を使って、まちを歩きましょう!

 

まち歩き出発地点の博物館裏口、川に向かって少しだけ下り坂になっていたんですが、この坂は当時ここに建っていた家の大きな米倉へ荷物を運ぶため。目の前を流れる湊川の川幅はもっと広く、現在の川沿いの道路にも水が流れていた。そして川向こうに見える、最近では「みなと川蚤の市」に使われている木造建物は銀行の米倉として使用されていた。などなど、まだ歩き出していないのに面白い話が次から次へと!お話いただいた内容を書き出すときりがない!

 

 

川沿いにたくさんの木が植えられている理由、お寺や神社にイチョウの木が植えられている理由、道が川に向かって下り坂になっている理由、と歩きながらも話が止まりません。
参加者からの質問にも丁寧にお答えくださり、1つ質問しただけで10も100も話が出てきていました。学芸員さんの知識量すごい。

 

 

受付時に配られた昔の地図と見比べながら昔の姿、現在の姿へ変わった経緯、その痕跡を見ていきます。

 

 

昔のまちの姿を垣間見えるスポットのひとつ、暗渠。普段から見ている景色のはずですが、「暗渠がここにあるよ」と教わって初めて視界に入ったような感覚でした。日常の中で見ているつもりでも、意外と見えていないものですね。ちなみに上記写真の暗渠は、店名が読めない美味しいラーメン屋さんの前にあります(氷見ファンの方ならわかるはず!)。

 

 

ずいずいっと歩いて海の方へ。写真に写っていませんが左手にはBREWMINさん、そして魚取神社があります。各町にある魚取神社、通常は海を向くように建てられるそうですが、何故かここの魚取神社だけ川を向いています。理由はいまだに不明らしく、なんでだろう〜〜と想像が膨らみます。

 

 

先に進んで細い路地へ。大通りと違ってグネグネと細い道が続きます。この辺りは昭和13年にあった大火の被害から免れたエリア。氷見市街地の多くは大火で焼け落ち、その後、復興のために区画整理が行われて現在の姿となりました。車が通ることを想定しない細い道、火事拡大防止のための風通りが悪いクランクだらけの道、道沿いにある年季を感じる木造の住宅など、当時のまちの姿を残す貴重なエリアです。

 

 

海へ出ると、昔の漁業で獲れた魚の上げ場へ。今でも定置網漁が盛んな氷見ですが、当時はそれまでよりも大きな定置網での漁が始まったことでイワシの漁獲量が格段に上がり、イワシを肥料とする畑等が豊かになり、また、魚の上げ場周辺は魚加工工場で賑わっていたそうです。

 

まちが変容する背景には、道具の発達や物流の変化など様々な要因が絡み合っているんですね。おもしろい!

 

 

その後は中央町商店街を通って…

 

 

博物館へ帰ってきました。1時間半ほどのまち歩き、話を聞くのに夢中であっという間に終わってしまいました。

 

 

最後は、まちで実際に使われていた品(普段は非公開のもの!)を見せていただきながら、江戸時代の火事消火方法について教わって、「むかしの氷見をあるく、江戸時代編」は終了しました。

 

 

普段通っている何気ない道一本にも、背景には行政による区画整理があり、更には区画整理のきっかけとなった大火、大火の出火元であり当時増えていた履物屋、履物屋が流行した理由…と、現在の姿となった経緯を知れば知るほど、自分がまちへ深く浸透できたような気がしました。
過去から現在へのルーツを知れば、まちがこれからどういう風に変わっていくのか見えてくるかもしれません。

 

2018年の「むかしの氷見を歩く」は、今回の江戸時代編に続いて室町・戦国時代編、古墳時代編、縄文・弥生時代編と続いていきます。
少しでも気になるという方はぜひ参加してみてはいかがでしょうか?学芸員さんの底なしの知識に圧倒されること間違いなしですよ!

 

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氷見市立博物館イベント
「むかしの氷見をあるく ~氷見まちなか歴史探訪~」

 

第1回 江戸時代編
     平成30年 9月15日(土)9:30~12:00 (終了)
 第2回 室町・戦国時代編
     平成30年 9月29日(土)9:30~12:00
 第3回 古墳時代編
     平成30年10月13日(土)9:30~12:00
 第4回 縄文・弥生時代編
     平成30年11月17日(土)9:30~12:00

 

詳細・参加希望は氷見市立博物館さんまで。
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見事な調和!「光久寺の茶庭」

夏の暑さも落ち着き、食欲も増してきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

日に日に秋らしい日になっていくので、家でじっとしているのがもったいなくなるような、絶好のお出かけ日和の日も徐々に増えてくると思います。
そんな時にオススメしたいお出かけスポットをご紹介します。


今回は氷見市飯久保(いくぼ)ににある光久寺にやってきました。

読み方は、「こうきゅうじ」と読みます。
ちなみにパソコンで変換すると高級寺になってしまいます。高級寺とはリッチなお寺ですね。

早速、敷地内にお邪魔しまーす!

お寺の敷地内は、広いですね。小学生は夏休みはここでラジオ体操とかするのかな?
夏休みの小学生という存在がすごく似合う敷地内です。できれば白いタンクトップに半ズボンの少年であれば、更にベストマッチ。



そんなことより、土砂降りで泣きそうです。
今年の9月、雨多いですよね。梅雨の時期にはほとんど降らなかったのに、9月の雨の多さったら…

敷地内には、ブランコがありました。白いタンクトップに半ズボンの少年を探してみましたが見当たりませんでした。


余談はおいておいて、この雨の中、光久寺にやってきたのは、そう…

光久寺の茶庭を見に来たのです!

光久寺の茶庭は、約1,200年の歴史があり、「俯して見る池もよし、仰いで見る山もよし」と偉いおじさんが名言を残したくらいすごいのです。この名言より「俯仰園 ぶぎょうえん」とも呼ばれています。


拝観料は、300円です。
拝観料を支払う窓口が見当たらず、玄関のインターホンを鳴らしてみました。玄関に記帳する場所があり、300円を箱に納めます。


拝観料を払ったら、とにもかくにも茶庭を目指します。

私だって名言残したい!
そして、次からのパンフレットには私の名言が載ることでしょう。

茶庭の目の前にやってきました。

今、なるべく茶庭をを見ないようにしています。

そう、ぱっと茶庭を見た瞬間、出てきた言葉が名言になるのです!


さぁ、目を開けます。

・・・。




「土砂降りやん。」


写真ではわかりにくいですが、相当、雨が降っています。

でも、土砂降りの茶庭もおもむき深いですなぁ。

まさに水も滴るイイお寺。

橋の隙間から、ぴょこんと飛び出る草木も可愛らしい。



一緒にいたおばあちゃんがこんなことを言っていました。

「まぁ、なんて綺麗なんでしょう。雨の日もとっても綺麗。ほんと来てよかったぁ。」

私よりも名言残せそうですね。ライバル出現!

座って庭を眺めると、時間がゆっくり流れていくような感覚になります。こんな場所、氷見にもあったのか〜。まるで京都に来たみたい。

週末とかに、ここに来て、ゆっくり景色を眺めながらモノ思いにふけるのもありですね。

とりあえず、私の名言が世間に出まわることは無くなりました。次は、晴れた日に訪れて、名言に再チャレンジしようと思います。


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ADDRESS 富山県氷見市飯久保2807
TEL 0766-91-1690
OPEN 9:00~17:00
CLOSE 12月〜3月休園

【ワーホリスタッフの氷見暮らしレポート②】おんぞはん祭り、参加してみたらホントはこんな祭りだった!

こんにちは、氷見市にワーホリ中のスタッフ(仮)及川です!
先日、町内会の皆さんと一緒に新町で行われたおんぞはん(お地蔵さん)祭りに参加してきましたので、今回はそのときの様子をお伝えします!
 
【お地蔵さん祭りとは?】
町内会長のお話によると、年に1回、8月の中頃に町内の皆で集まってその地区を見守ってくれているお地蔵さんをたたえるお祭りのようです。
地蔵祭りといえば、子供が主体となって行うのが一般のようですが、現在の氷見(この町内)では少子高齢化の影響もあってか、子供が主体で何かするということはなく年に一度町内の皆が顔を合わせて談話する数少ない機会として大切にされているそうです。
(※他の町内でのお地蔵さん祭りの情報とは異なる可能性がありますのでご参考までに…)
 
 
さてさて、
集合は午後1時、太陽が激しく照り付ける中お祭りの準備開始です!
 

 

最初はお地蔵さんをたらいのなかでごしごし、
そういえば洗うのに夢中で大事なところを写真に撮るのをすっかり忘れていました…。スミマセン…。
 
皆さんに丁寧に洗ってもらって、猛暑を乗り越えたお地蔵さんも心なしか気持ちがよさそうでした。
 
そしてお父さんたちが大きなテントを設営する中、私はお母さま方に混ざって御座敷の上でこんにゃくを束ねる作業をお手伝い。さすが主婦の皆様、私が苦戦している間にもぽんぽんと完成させていく…。
 

 

こんな感じで大量のこんにゃく串が完成。
 

 

可愛く撮ってね~、と言われたけれど私が撮っていたのは手元…。
皆さんの機敏な動きが撮りたくて…。お許しくださいっ。
 
 
とここで、作業もひと段落したので休憩!
 

 

休憩中の一杯に力仕事を終えたお父さんたちは嬉しそう。
 

 

束の間の休息の後は、それぞれ出店の準備を開始!良い香りが街角に広がり、すっかりお祭りキブン~。
 

 

男性陣だけでなく女性陣も負けじとパワフルに働きまくり。氷見では共働きのご家庭も多いと聞いていたのですが、町内会のママさんたちから女性の強さを実感し納得。
 

 

地元の氷屋さんの氷を使ったかき氷って贅沢!ちょっとレトロなかき氷機にもきゅん。
お父ちゃんたちが大きな氷の塊を半ば強引に割ってくれました…。豪快!
 

 

よーし試作品食べてみよ~、と思ったらなんでもこれからお寺の方をお呼びして法要を行ってから食べられるとのこと!子供たちもお腹すいたといいながらも待機!
 

 

心を込めて洗ったお地蔵さんは着飾って上段に。
 

 

私も一緒にお焼香させていただきました。
 
そしていよいよ縁日がスタート!
 

 

色々なところからお姉ちゃん!!と呼ばれ、ご挨拶。皆さんとても優しくて私のコミュニティづくりまでサポートしてくださって…ありがとうございま
 

 

焼きそば・焼肉部隊のお母さんたちも喜ぶお客さんの顔を見て、作る手により力がはいります。
お客さんの意見を聞きながら味を微調整する職人たちの横顔…!!!
 

 

こちらは飲み物を渡してくれる子供たち!
比較的年が近いせいか、この後存分に遊ばれた及川です…。
かき氷つくって!俺も食べたい!と元気な声で言われてしまえば、どれだけイタズラされても憎めない子供たち。最終的にかき氷のカップを頭にかぶることになったのですがさほど面白くもなく謎の大やけどを負ったことも大目に見ましょう…。
 

 

そんな流れでこの日は8時ころに終了。
 
 
翌朝は7:30から撤収作業開始。
 

 

そして前日のようにお寺の方に来ていただき、法要を行いお祭りはこれにて終了です。
 
 
参加していた方々とお話をしていると、奥様方のなかには京都出身やら宮崎出身やら氷見出身ではない方がちらほら。最初は言葉もわからないし不安だったと語る奥様も今では一体となって和気あいあいとした雰囲気でお祭りを楽しんでいる様子でした。
 
見ず知らずの私が来てもお手伝いをすることで輪に入れてもらってたくさんお話をして、1日ですごく距離が縮まったように思います。そんな自分の経験とマダムたちのお話からこのお祭りには他から来た人がその町に馴染み、コミュニティを作ることにおいても重要な役割を果たしていると感じました。
 

 

最後にもらったふくろには“ともちゃん”の文字!これだけでちょっと仲間に入れてもらえたようでうれしくて、つい写真に収めちゃいました。
 
ただ町内のお母さんお父さんたちのパワフルさを存分に実感するとともに、やはり圧倒的に若者が少ないことで、結構体力がいるこのお祭り、この先どうなるんだろうねなんて話があったりなかったり。
 
「やっぱりいいねえ、みんなあつまると。楽しいよ。笑っていらにゃ死なれん。」と言って笑うお母ちゃんたちをみていたらいつまでも続いてほしいなと思うばかりです。
 
以上今回はお地蔵さん祭りについてでした。
氷見に滞在して一週間以上がたったようで、氷見はどうだ?と聞かれる機会が増えまして。ええ。ここには書ききれないくらい密度の濃い日々を送っているため一言で表せないのがもどかしいです。
明日はどんな人と会ってどんなことをしてどんなお話をできるのかな…、そんな氷見暮らしの日常を次回も皆さんにお届けしますね。

氷見・夏の風物詩 『祇園大祭』参加録

こんにちは、みらいエンジンスタッフの藤田です。
地域の魅力というと風景や食と並んであげられるのが伝統文化。
伝統文化というと、代表格はそう、お祭りです。
千葉のベッドタウンで育った私にとってお祭りというのは町内会の縁日や盆踊りくらいの印象だったわけですが、地方にきてみると由緒正しく引き継がれた数多くのお祭りに出会うことができます。
そしてそれらは他人事ではなく、氷見に住むことはその祭りにひとりの住民として参加することにもなります。
今回ご紹介するのは数ある氷見市の祭りのなかでも三大祭礼のひとつとして数えられる祇園大祭です。
 

そもそも祇園大祭のはじまりは、氷見旧町・御座町にあるといわれています。
およそ300年の昔、氷見の町では悪病が流行していました。それを鎮めんとして京都八坂神社から分霊を迎え平癒祈願を行なったところ見事に悪病が治まり、これに感謝して神輿に神霊を奉還し町内を巡行。これがやがて南北に広がって、町をあげての大祭になったといわれています。
 

現在の祭りは町の中央を流れる湊川を堺に北六町、南十町と別れて行われており、私が住まいしているのは北側の新町という町内。
そしてこの新町は今年、順番にやってくる年行司を務める年ということで、このお祭りを取り仕切ることになっていました。(このあたりのお話は以前に書いた「まるまげ祭り」の記事も是非ご覧ください)
とはいえ、私のような新参者の仕事はとにかく肉体労働。
太鼓台(たいこんだい)を引き回すのがメイン業務です。
 


 

それでは当日の様子を見てみましょう。
祇園大祭自体は7月13日が宵まつりとなり、南の町内ではこの日から曳山や太鼓台の巡行ははじまりますが、北の町内は太鼓台の飾り付けなどをして終了。14日が本番となります。
集合は正午前と比較的ゆっくり。
見事な晴天のもと、町内の太鼓台が収められている倉庫に向かいます。
この夏なんど思ったかわからない「暑すぎる」が脳裏に浮かびますが、この日はわけが違います。
なぜならこの炎天下のもと祭りは夜遅くまで続くからです。終了予定は22時とのことでした。
 

出発のときが近づき、いよいよ太鼓台を動かします。
太鼓を打ち鳴らし、縦笛を吹いて、車輪の音がゴロゴロと……もはやおなじみの音色です。
まずは巡行の出発地点となる北六町のお宮・日宮神社を目指します。
日宮神社に到着するとまずはお宮にご挨拶。
鳥居の下まで太鼓台を運び入れ、そのまま通りに戻ります。
続々と各町から集まってきた太鼓台も同じように挨拶を済ませ、通りに並びます。
 


 

宮から神輿が出てくるといよいよ出発のとき。
みなさん汗を流しながらも、どこか高揚した表情をされているのが印象的です。
 


 

定刻となり、年行司の新町を先頭に巡行がスタート!
太鼓を打ち鳴らし行列が町を進みます。
ここから6町すべての町の家々を回り、不幸があるなどして「遠慮」している以外のすべての家々を巡っていくのがこの祭りの大半の流れ。
行列が家の前に来ると、神職の方は笛を吹き、祝詞をあげます。
神職の方はたくさんいらっしゃるとはいえ、ひとつひとつの家を回るため時間がかかり、行列は少し進んでは止まり、また少し進んで……とゆっくり進んでいきます。
それで丸一日の長い時間がかかるわけです。
 


 

まちなかを縫うように進み、上庄川河口付近で小休止。
太鼓台は氷見沖に浮かぶ唐島に向けて崇敬。
行列の祭り衆は一休み……なのですが、ここは河原で日陰がない!
どうしてここで休もうという発想が生まれたのでしょう……
おそらくこれこそ伝統。地元の方も毎年「日陰がない、暑い」といいながら変わることはないようです。
 


 

小休止が終わるとまたゆっくりと巡行が再開します。
もうおわかりかと思いますが、基本的にこのあとしばらく絵変わりしません。
ただただ汗を書きながら町を進みます。
 


 

大きな休憩を挟んで夕方頃、行列は私たちみらいエンジンの事務所『まちのタマル場』に。
みらいエンジンもまちの一員ということで、祝詞をあげていただきました。
 


 

法被を羽織って額にタオルという祭り装束のままお迎えをして、終わるとそのまま列に戻ります。
日もだいぶ傾いて、気温はまだまだ高いものの、影が増えてだいぶ楽になってきました。
あとひと踏ん張りです。
 

日が落ちると太鼓台の提灯に明かりを灯します。
この提灯がゆらゆらと揺れる様が風情があっていいですね。
LEDでなく本当に火をつけているので提灯が炎上することもままありますが……
 


 

そしてここからがこの祭りの真骨頂。
祇園祭りの名物といえば「ケンカ」。
漁師町らしく荒々しい太鼓台のぶつけ合いが一番の見所です。
例年は巡行の途中にも行われることがあるのですが、今年は安全面への配慮から巡行の最後だけとなり、観客の期待も高まります。
 


 

20時をまわった頃、すべての太鼓台が日宮神社に戻ると、いよいよ会場の熱気はピークに達します。
青年団の若者たちは目を輝かせ、年配の方々も若き日を思い出してか興奮を抑えられない様子の方もちらほらと……
第一線は我らが新町と本川です。
なのですが、新町は若者が少なくそのままやったのではとても戦えません。
そこで近年は濱町のみなさんが助っ人として参加。
そのときだけは新町の法被を着ていただいて、さあはじまります!
 


 

(※2枚目は6町のなかでも若者が多く活気のある今町と中町のケンカ前の様子)
 

道路の中央で向かい合った状態で、太鼓台の上に次々と青年団が登っていきます。
まずは「イヤサーイヤサー」の威勢のよい掛け声とともに、太鼓台をみんなで力を合わせて片輪が浮くように右へ左へ揺さぶります。威嚇のように相手よりも激しく、大きく見せるように。松の木もワッサワッサと枝を揺らします。
そして頃合いをみて合図の笛が鳴り響くと、相手に向かって突撃!
ガツンと重い音と衝撃が走り、ぶつかるやいなや松の木に登っていた青年団たちは相手の松へと飛び移ります。
正直なところ具体的なルールというのは私も把握していないのですが、ひとまず相手の松の木をへし折るのが目的といったところでしょうか。
ですので飛び移った若者は枝にぶら下がって枝を折りにかかり、自分の太鼓台に残ったメンバーは飛び移ってきた相手を妨害します。
かなり激しい攻防が繰り広げられ、2m近い高さから人が落ちることも珍しくないという、なかなか衝撃的な戦いです。
ちなみに私は氷見にきてはじめてこの祭りをみたときに「絶対こんなのできない」と感じた印象そのままに、今回も松には登らず下で太鼓台を押す係をしていました……
 

再度笛が鳴るとお互いに離れます。
今回は一度で決着がつかなかったために、もう一戦。
結果からいうと、2戦目で新町の松はぽっきりと折られ、我らが新町の祇園祭は終わりを告げました。
 


 

太鼓台を片付け、年行事として道路の清掃まで行なって、北六町の祇園大祭も終了。
今年は残念ながら怪我人が出る事態となったのが残念でしたが、こうして長く暑い一日を終えることができました。
 

祇園大祭は現代には珍しく荒々しいお祭りで、今回のように怪我人が出ることも少なくないため、色々な意見が出ています。
しかし都会からきた私のような者からすると、町の人が一体となって、また夢中になって参加できるこうした行事があることはとても素晴らしいことに感じます。
もちろん安全面への配慮は必要ですが、危険だからと制限するばかりでは、氷見の伝統のひとつを失うことにもなりかねません。
地域が地域らしくあるために、伝統を未来に繋げていくために、矛盾する問題に向き合って祭りが続いていくことを心から願います。
 


 

さて、最後は少し難しい話になりましたが、祇園大祭の様子はいかかがでしたでしょうか?
ケンカの迫力や熱気は、写真と文章ではとても伝えきれません。
ぜひとも一度、実際にご覧いただければと思います!
祭りは毎年7月14日(北の場合、南は13日から)。
気になった方は是非来年いらしてみてくださいませ!!
 
※「氷見の町は北六町・南十町」と書いていますが、南の町は実際には十一町あり、祭りにも十一町参加しています。なぜ「十町」とされているのかは……歴史的な経緯、氏子関係など、諸説あるそうですが、地元の方とも話していましたが正確に応えられる方は少ないようです。氷見のことに詳しい方、是非教えてくださいませ……!

漁師町らしさを感じられる伝統の祭り「唐島大祭」

氷見の沖合に浮かぶ丸くてかわいらしい島、唐島。
氷見らしい風景のシンボルとして写真などによく収められるこの島の名前を冠したお祭りがあります。
それが唐島大祭。
氷見3大祭礼のひとつに数えられ、毎年5月3日に行われています。氷見の中心市街地浦方3町(魚取社を持つ湊町、濱町、今町)と祭礼を取り仕切る光禅寺町内の中町により古くから行われています。
今回は豊漁と海上安全を願う漁業祭として市民に親しまれるこちらのお祭りの様子をお伝えします。
 
 


 

午前11時、光禅寺には各町の宿を出発した祭り連中が続々と集結します。
事前の予報では雨風が酷いとのことで開催も危ぶまれていたものの、雨は朝方には上がっていました。風が強く肌寒くはありますが無事に開催できそうです。
まずはこちらで読経があり、正午の鐘を聞いて巡行がはじまります。
 


 

唐島大祭の大きな流れは、光禅寺の弁才天像を納めた厨子の載る神輿と4町の太鼓台による市内巡行、漁業交流センター前での獅子舞共演、そして船で唐島に渡っての獅子舞奉納というものです。
各町内は合わせてそれぞの町内での獅子舞マワシもあるため、世帯数の多い町内では朝方からはじまり唐島大祭の巡行を挟んで夜中まで続くところもあります。
 


 

太鼓の音を響かせながらそれぞれの町内を縫うように練り歩き、漁港を目指します。
 


 

漁港施設を回って敷地内にある漁業交流センターへ。
こちらでは昨年獅子舞を休止した濱町を除く3町による獅子舞共演が見られるとあって多くのお客さんが集まっていました。
「イヤサー、イヤサー」という威勢のいい掛け声と、漁師町らしい荒々しくも洗練れされた舞に観客も沸き立ちます。
 


 

共演から各町の単独演舞があり、それが終わると年行司の町内は船に乗って唐島に向かい、唐島弁天堂に獅子舞を奉納することになっています。
しかし今回は強風が収まらず渡航は中止。
その画が見られなかったのは残念ではありますが、あくまで海上安全のお祭り、安全第一です。
 


 

と、ここで一段落。あとはそれぞれ自分の町内に戻り獅子舞を回します。
 
 
取材もここで終わりと思いきや、撮影のなかで湊町の知人から声を掛けられ晩に行われる「終演の集い」にお誘いいただきました。
光栄なことなのですが、少し恐れ多い気持ちになりました。
というのも湊町という町内にとってこの「終演の集い」は特別な意味を持っていたからです。
 
湊町の獅子舞は今年度をもって休止することが発表されていました。
原因はやはり人口減少。
地元を離れる若者が増え、現在獅子舞に参加する町内の高校生は1人だけ。獅子舞を担う「湊祭乃会」会員の年齢も上がり、多くは町外に暮らす地元の出身者となっているそうです。
明治時代にはじまり太平洋戦争での中断を越えて現在まで続いてきた伝統が、ここでひとつの区切りを迎えます。
余所者ながら感傷を覚えつつ、ご厚意に甘え参加させていただくことにしました。
 
夜10時、湊町の宿を訪ねるとすぐ近くで獅子舞を回しているから見てくるとよいとのこと。
まずはそちらの様子をみにいきます。
細い路地もすべて回って獅子舞を演じ、家主はそれを玄関先や座敷から見守ります。
これを一日中繰り返すのですから、獅子舞にかかるエネルギーというのは本当に大変なものであると実感しました。
 


 

しばらく町マワシの様子を鑑賞して宿に戻ります。
お誘いを受けて入った座敷にはお酒と料理、そして過去の祭りの映像がスクリーンに映し出されていました。多くの方は獅子舞の方を観に行っているのか座敷に座る方は少なかったですが、映像を観ながら思いで話に花を咲かせていました。
 


 

歓談していると太鼓の音が近づいてきました。
人も続々と集まりだし、いよいよ終演の舞がはじまります。
 


 

11時。演舞スタートです。
 


 

今日は日中にも獅子舞を観ていた訳ですが、同じ演目でも夜の獅子舞はまた雰囲気が違います。
灯りに照らされながら軽快に舞う天狗と豪快に猛る獅子。
 


 

代わる代わる演目が披露され、間には元青年団のおじさまたちが舞う姿も。
 


 


 

三方に礼をしてから、楽しそうに演じる姿が印象的でした。
 


 

日付も変わるころ、最後の演目「シシゴロシ」がはじまります。
道の両端で火を焚いてまずは天狗と獅子が一周。
そしてここから戦いがはじまります。
 


 


 


 

40分ほどの決闘を経て、最後には天狗が刀で獅子を退治。
天狗は獅子に跨って担がれたまま宿に入って祭りが終わりを告げます。
 


 

終演後はみなさん晴れやかに、どこか名残を惜しむように、談笑や記念撮影をされていました。
そんな風景をみながら私はここでお暇することに……
 
町内での獅子舞を終えた湊町。8月には伊勢神宮での奉納が行われることになっており、その奉納を持って休止となります。
しかしこの決断は「獅子舞の型が残っているうちに」というのが理由であり、「湊祭乃会」の保存会としての役割もあって、二度とみられないものではありません。
戦火によって中断された獅子舞が戦後復活して今日まで伝えられてきたように、この伝統文化を守っていくことでまたこの地で舞われるようになる日も来るのかもしれません。
 
最後は個人的な願望の話になりましたが、ともかく「湊祭乃会」のみなさま、そして唐島大祭に関わった町内のみなさま、朝から晩までの長い時間本当におつかれさまでした!

氷見に春を告げる祭り「まるまげ祭り」の裏側レポート!!

 こんにちは、スタッフの藤田です。
 春ですね。
 暖かい日差し、桜、山菜……自然に恵まれた土地で感じる芽吹きの季節というのはなんとも感慨深いものがあります。
 こうした喜びは今も昔も変わらず、だからこそ「祭り」が連綿と受け継がれているのでしょう。
 氷見のまちではこの時期毎週のように各地域を巡る獅子舞の姿を見ることができます。
 
 今回はそんな「祭り」のお話。
 数ある氷見のお祭りのなかでも少し変わったもの――まるまげ祭りをご紹介します。
 

 

 まるまげ祭りは正式には観音大祭といって、中心市街地の「北六町」千手寺のお祭りです。
 はじまりは、かつて氷見の町に住んだ芸妓たちが幸福な結婚を願って、年の一度の休日に人妻の象徴であるまるまげを結って千手寺の観音さまに願掛けをしたことと伝えられています。時代とともに芸妓の数が少なくなって一時は衰退していましたが昭和62年から一般の独身女性を対象として募集をはじめ、人気が高まり現在まで市内外問わず多くの方が参加されています。
 観音様を載せた御神輿、先導役の太鼓台、法螺によって魔障を払う法中方、氏子総代、花笠童子にお稚児さん、そして艶やかなまるまげ嬢――行列をなして市中を巡航する様子は他ではみられないものです。
 私自身氷見に移住してはじめてこのお祭りをみたときにはその華々しさに感動を覚えたものです……
 


 そんなお祭りに、今年はなんと祭りの担い手として参加することになりました。
 というのも、まさに今私が住んでいる町が、先程少し触れた「北六町」なのです。
 この丸まげ祭りや7月の祗園大祭では、六町が年毎に年行司を務めることになっており、今年は我が町内「新町」が六年に一度の大役を担う年という訳です。
 移住して浅い私ですが昨年から祗園大祭に参加するなど、ありがたいことに町の一員として扱っていただいており、年行司ということもあって今回のお祭りにもお呼びがかかったのでした。
 
 ということで、今回はお祭りの裏側をの担い手の視点からリポートです。
 


 我らが新町青年団の仕事は大行列の前日から。
 一般的に注目されるのは17日の丸まげ行列ですが、祭り自体は二日間に渡って行われ、この日は観音様をお迎えに行くところからはじまります。
 夕方に集合すると太鼓台の準備。早い時間から先に準備を進めていたこともあり、松や太鼓もセッティング済み。新町は青年団が少ないこともあって他地区に住まう地域おこし協力隊とOBも助っ人に来ており合流。法被を纏って出発の時を待ちます。
 


 

 しばらくしてあたりが薄暗くなったころ、いよいよ出発!
 
 


 

 太鼓の音を響かせながら、青年団は千手寺へと太鼓台を牽いていきます。動き出せばさほどの力はいらない太鼓台ですが、方向転換では一仕事です。車輪は曲がる構造になっていないため、角に差し掛かると全員で息をあわせて強引に向きを変えます。
 トントコトントントコトントンと太鼓の音、ガラガラゴロゴロと車輪の音、そして時折ガガガガガッと曲がる音。
 これが町に春を告げるひとつの音楽となっています。
 


 


 

 千手寺に続く階段の下に到着です。
 事前に降ろしてあった御神輿と合流すると、後は観音様を待つばかり。
 


 

 観音様は、北六町総代と法中方の観音堂でのご法楽を終えた後、年行事新町総代の手によって大切に運ばれてきます。白手袋にマスクを着けた総代は観音様を抱え石段を降りてくると御神輿に安置します。
 


 

 丁重に固定された後、一行は太鼓台の先導によって新町氏子総代の家に向かいます。この総代の家は「お旅所」と呼ばれ、観音様はここで一晩を過ごすことになります。
 


 

 お旅所までの先導役を終えるとこの日の青年団の仕事は終了。
 総代と法中方はお旅所で法案・ご法楽・法話がありますが、青年団は新町にある食堂「よしだや」さんで会食。歓談しながら明日への英気を養います。
 


 

 そしていよいよ翌日。
 青年団はお昼にお旅所に集合。太鼓台を再度セッティングして出発のときを待ちます。
 


 

 お旅所には続々とお稚児さんとご家族が訪れます。お稚児さんはここで額に黒点を描いてもらい冠を受け取ります。泣き出しそうなお子さんもいて実に愛らしい姿に、今や遅しと集まってきているカメラマンさんたちも釘付けです。
 


 


 

 そこに法中方、まるまげ嬢もずらり勢揃いして、ついに出発のときです。
 太鼓台の合図をもとに、巡行スタート!
 
 太鼓台は北六町の町内をぐるりと巡ります。行く先々には人、人、人……
 自宅の前で眺める人もいれば、行列に付き添って歩いて来れれる方、シャッターチャンスを押さえようと先回りしている方など、たくさんの方が見物にいらしていました。
 私は先頭で太鼓台の綱を牽いていたのですが、大勢の注目を浴びて自然と身体に力が入ります。
 


 

 中間地点では写真撮影、メディア取材を含めた休憩時間があります。
 ここでは法中方による厄除けの「散花」が行われ、ちゃっかり私もゲット。
 


 

 いくつか種類があるようでコレクション魂に火が付きそうになりますが、ひとついただいて遠慮しておきました。
 
 休憩が終わると、再度太鼓台につながって先手寺に向かいます。
 
 先手寺に続く石段まで来ると先導役の仕事は終了。
 丸まげ嬢は階段下に整列し、法中方に従ってまず閻魔堂、続いて酒飲み地蔵を拝みます。
 


 

 拝礼が終わると列をなしたまま階段を上がっていきます。三人一組横一列綺麗に揃って階段を上っていくこの場面は祭り屈指のシャッターチャンスとあって、多くのカメラマンが階段にスタンバイ。思い思いにシャッターを切ります。
 


 

 さて、まるまげ嬢を見送ると青年団は最後の大仕事。
 観音様が載っていた御神輿を台車から外して担ぎ、この長い階段を上っていきます。
 重たいことはもちろん、御神輿が門などにぶつかって傷つかないように慎重に、時折腰をかがめながら……そして「がんばれ」という見物客のお声をいただきながら――
 本殿に無事御神輿を収めて、今度こそ本当にお役目終了です。
 
 
 青年団はこの後太鼓台を町の倉庫に帰して解散となるのですが、私は取材を兼ねてということで祭礼のその後を見学していくことができました。
 先手寺に到着したまるまげ嬢、総代、法中方は観音堂でご法楽。
 


 

 その後、境内に出て丸まげ嬢が整列したところで護摩修行がスタート。
 細かな流れは専門家でないので省きますが……祈祷の後、宝弓の儀、そして御神燈を護摩壇に移してます。そこに丸まげ嬢をはじめ多くの方の願いが込められたそえ護摩木が投げ込まれ、諸願成就の祈祷がなされます。
 


 


 


 

 と、これにて「まるまげ祭り」の全日程が終了です。
 
 以上、いかがでしたでしょうか?
 ……お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、肝心の裏方らしい写真が少なかったですね。ええ、一生懸命働いていたものですから……本当は御神輿を担いで階段を上がるシーンの写真があるとよかったんですが。
 
 ともかく、ちょっと変わった、しかし氷見市民に春のおとずれを告げる丸まげ祭り。是非一度現地に足を運んでご観覧ください!
 そして氷見に移住を検討されている方、もし北六町にお住まいになることがあればあなたもお祭りの担い手になるかもしれませんよ……! お待ちしております!!

「ドブネ」「テント」「テンマ」、氷見の木造和船の話

こんにちは、見習い相談員の西田です。
「ドブネ」「テント」「カンコ」「テンマ」「ズッタ」「サンパ」、この言葉を聞いたことはありますか?
これらは全て、氷見で昔使われていた木造漁船の名前です。
今はFRP(繊維強化プラスチック)でつくられた漁船が主流となりましたが、昔の漁船はもちろん木製。
木造漁船の材料となる木も、氷見の山で採れるものを利用していました。
今回はそんな、氷見の木造漁船についてのお話です。

 


 

木製の船って実際に見たことありますか?日本の木造船は「和船」と呼ばれ、船大工さんが鑿や鉋を用いて、木の特徴を活かしてつくります。まさに職人仕事。
和船は江戸時代頃から全国へ広がり、用途や土地柄によって様々な大きさ、つくり方、名前が普及しました。それが時代と共に、西洋型の帆舟や汽船、エンジン動力船に置き換えられ、戦後にはほとんど見られなくなったのです。今実際に見られる場所といえば博物館ぐらいじゃないでしょうか。でも、氷見にはあるんです!現役の和船が!これは記事後半で詳しくお伝えしますね。

 

和船の構造は地域のよって多種多様。使われる木の種類や特性が地域によって異なるので、木を活かして船をつくると自然と構造も違ってくる、というわけです。木目を読んで船をつくる、そんなカッコいい船大工さんも和船の衰退と共に少なくなり、多くの方は現在主流となるFRPによる造船へ転換、もしくは廃業を余儀なくされました。現在現役の船大工さんは、富山県内では氷見にいらっしゃる方ただ1人ではないかと言われています。

 

 

帆を張って進む和船もありますが、氷見の漁業で用いられていた和船は「櫓(ろ)」と呼ばれる、長くて薄めの木の棒で船を操ります。操船方法は、ベネチアのゴンドラをイメージしてもらえるといいかもしれません。ゴンドラはオールを船横におろしていますが、和船は基本的に舟の後ろ、複数の櫓で操船するときは後ろ+横にオール(櫓)をおろします。船の縁を支点にし、櫓を水の中で左右に動かして進みます。ギーコーギーコーって感じで。

 

氷見の漁業で使われていた和船は、「ドブネ」「テント」「カンコ」「テンマ」「ズッタ」「サンパ」などなど。この和船の名前ですが、氷見では「テント」だけど富山県内の他地域では「アンブネ」「ツリブネ」の名称だったり、「カンコ」も他地域では単に「フネ」と呼ばれていたり、全国に「テンマ」はあるけど形が少しずつ違ったりして、ちょっと複雑。文章ではなく口承で伝えられたのか、漢字に直すとそれぞれ何パターンか存在します。もう、覚えきれません。

 

この中から、「ドブネ」「テント」「テンマ」の3種類を簡単にご紹介します!

 

「ドブネ」

3種類の中で一番大きく、漁獲用の和船の中でもかなり大型の船です。全長14~15m、使われる木材の厚さは約15mm。
操船するときは、6~8人が1人1本の櫓を操ります。とにかく大きくて重たい船、と覚えれば間違いありません。
船底が四角いので、荷物を大量に積むことができたそうです。満杯まで載せると、鰤を1200~1300本(!!)積めるほど。
氷見では昭和30年代末まで、定置網漁の網取り船として主力を担っていました。
ですが、頑丈で鈍重なドブネはエンジンを積んだ動力船に改良されることはなく、また材料となる杉の確保も難しくなったことから、昭和35年頃を最後に新造されなくなりました。

 

「テント」

テントはドブネと比べて軽快な船で、船底も三角形に近い形状で船足が早く、操船もドブネに比べて楽だったそうです。
最初は定置網漁の作業船や運搬船として使われていましたが、昭和初期には鮪漁の定置網漁に、昭和30年末にはドブネに変わって定置網漁の網取り船の主力となりました。大きさは全長7~15m、使用目的に応じて各種サイズがありました。目的に合わせて姿を変える、器用な子ですね。
大正時代にはエンジンを積んだテント型動力船がつくられ、昭和40年代末には木造のテント型動力船を模したFRP製漁船が一般的となりました。

 

「テンマ」

漢字は“伝馬”“天馬”と諸説ありますが、氷見では天馬と書かれているのをよく見かけます。ペガサス的な名前、夢を感じます。
元々はハシケ(大型船と陸の間を往復して荷物・乗客を運ぶ小舟)や荷船として使われていた船で、漁船として使われ始めたのは大正時代に入ってからではなかと言われています。
構造はテントと同じですが、テントよりもずっと小型で、全長は6m以下。軽くて扱いやすい船で、小さいテンマは船後ろに取り付けた櫓一本で操船します。
漁船としては主に、定置網漁の網取り船の周りの作業船として使われていました。

 

昭和10年ごろの氷見の漁業では、秋から冬にかけての秋網(鰤網)漁には「ドブネ」、夏の夏網(鮪網)漁では「ドブネ」と「テント」を併用、冬から春にかけての春網(鰯網)漁は「テント」を使用するのが主流だったそう。船の大きさや形状の違いは、漁獲する魚の種類と密接に関係しているんですね。

 

 

昔はこうした和船が漁業の主役でした。この和船をつくるための材料はもちろん、木。漁業が盛んな氷見ですが、その裏には豊かな山も大きく関係しています。

 

氷見の山で育つ杉は、強靭さと柔らかさが特徴。これは船をつくるのにとても適した特徴だそうで、和船が主流だった頃は、造船用として杉を育てていました。造船に使う木の選定・確保は、船大工棟梁に任せられていました。とても大事な仕事だったんですね。棟梁自らが氷見の山林に入り、造船に適した木を選び、持ち主と交渉し、木挽職人に現地で木材を切ってもらっていたそうです。「ドブネ」には杉の大木が、「テント」には曲げやすいボカ杉が多く使われていました。

 

ちなみに「テント」によく使われていたという「ボカ杉」とは、戦後に多く植えられた杉で、発育スピードがとても早いんです。「ボカボカ育って、ボカボカ儲かる」から「ボカ杉」という話があるほど(名付け方、ちょっと雑じゃないか…)。

 

船大工が漁船をつくるために山に入り、手が入ることで山は豊かな自然形体を維持し、豊かな山から流れる川の水によって里が潤う。古くなった漁船は陸で朽ち果て、山の自然へ戻る。和船、というより昔の漁業の形態全体が、海と山の関わり、自然の循環を象徴する存在だったんです。

 

昔は漁船だけでなく、浮きや漁具も山の材料でつくれらており、良い材料を育て活用するために、頻繁に人が山に入り、木も山もよく手入れされていました。ですが、今は山の材料が活用される場面も少なくなり、人が入る機会が減って森が手入れされずに荒れ、雪折れや風倒など被害が多発するようになりました。

 

 

和船がつくられていた時は漁業と林業の関係がいい具合にマッチしていましたが、今ではバラバラになった海と山の存在。ですが、ご紹介した「ドブネ」「テント」「テンマ」、最近氷見で復元されいるんです!

 

造船されたのは最初にチラッとご紹介した、富山県内唯一の現役船大工さん。おじいさんの代から造船屋を営んでいたそうですが、和船が途絶えた後はFRP造船の仕事をされていたそう。ですが、その間も船大工の道具の手入れや材料の管理は続けられていたのだとか。もうこのエピソードだけで惚れてしまいます。職人さんの手仕事やモノを大切にしていた時代への思いが!もう、ね!グッときます。

 

「ドブネ」が完成したのは本当に最近、今年頭のこと。本来のサイズは大きすぎるので1/2サイズでの復元となりましたが、木材の入手から乾燥(山から切ったばかりの木材は水分を多く含んでいるので1年ほどをかけて乾燥させて、やっと材料として使えるんです)、制作まで自らが手がけられました。
今回の「ドブネ」の制作は、高齢者の回想法に利用する目的が大きいそうです。元漁師さんや元船大工さんの高齢者がつくる過程を見学、制作工程を映像や写真でも記録しており、昔を思い出して認知症改善などに繋げる「回想法」に活用されています。

 

「テント」は全長9mサイズで復元されました。日本国内を見ても、このサイズの大型和船が現存する例はほとんどありません。制作したのは船大工さんともう1人、弟子入りという形でアーティストのお兄さんも加わりました。船をつくるだけでなく、技術を伝える目的もあったのでしょうね。

 

そして「テンマ」は船大工さんの手によって2艘、「テント」で弟子入りしていたお兄さんの手でもう1艘が造船されました。さらにアメリカ人の米国船大工さんも氷見に滞在しながら、「テンマ」の兄弟である「ズッタテンマ」を1艘造船しました。

 

 

氷見で和船の復元がこんなに盛んに行われている背景には、貴重な現役船大工さんの存在と、アートプロジェクトの活動があります。2006年から始まったアートNPOによる和船復活プロジェクト。「テンマ」復元の資金調達のために「ミニチュア天馬船レース」を行ったり、完成した「テンマ」を使って櫓漕ぎレース「テンマッチ」を開催したり。残念ながら現在はどちらも開催されていませんが、和船復活プロジェクトについて気になる方は『氷見クリック』『ヒミング』でググってみてください!

 

 

復元された和船は今も定期的に活用されています。
この春には、さくら咲く湊川を「テンマ」に乗って遊覧できるイベントが開催予定◎
近所のベテラン漕ぎ師たちが、情緒あふれるハッピ姿で操船してくださいます。
川沿いでは桜あんぱんやたけのこ、原木椎茸の炭火焼など春を満喫できる屋台や、琴の演奏もあるそうです!

 

ぜひ、復元された「テンマ」を体感してみてください。
ギーコーギーコーと揺れながらゆったりと進む木造の船、きっと楽しいですよ。

 

「テンマ」でのお花見遊覧イベント、「春 さくら 天馬船」についてはこちらの記事でご紹介しています。
氷見の春を堪能!春さくら天馬船イベント

 

 

参考文献
————–
「氷見の漁業と漁村のくらしⅡ」 著・氷見市立博物館(2001)
「とやま和船 和船建造技術を後世に伝える会調査報告書Ⅲ」 著・和船建造技術を後世に伝える会(2011)
「とやまの海と船」 著・和船建造技術を後世に伝える会(2016)

氷見ならではのお寺!?【光禅寺】

氷見市にある650年以上の歴史を持っている「光禅寺」というお寺をご存知でしょうか?


ここはただのお寺ではなく、あの漫画家「藤子不二雄Ⓐ先生」の生家でもあるのです。
というのも、藤子不二雄Ⓐ先生のお父さんがこのお寺の第49代住職で、先生が小学5年生のときに高岡市へ引っ越すまで、このお寺に住んでいたという。

今回は、普通のお寺とはちょっと違う、氷見らしいお寺「光禅寺」をご紹介します。


 


 





まずは光禅寺に行く前に、光禅寺近くの比見町商店街を散策してみましょう。
藤子不二雄Ⓐ先生にとって比美町商店街は庭みたいな存在だったはず!

この氷見市比美町から中央町にわたる商店街には、氷見を盛り上げるために作られた「まんがロード」が存在するのです。
まんがロードのあちこちでは、忍者ハットリくんなど、立体モニュメントになった藤子不二雄Ⓐ先生のキャラクターに出会うことができます。





見慣れてしまったけど、改めて見ると藤子不二雄Ⓐ先生のキャラクターがそこらじゅうにいる商店街って面白いですよね。バスまでも怪物くんです。


いいよ!いいよ氷見!
どんどん藤子先生の作品に乗っかろう!あやかろう!



藤子不二雄Ⓐ先生のファンにとっては、まさに“聖地”ですよね。
まんがロードには全部で8種16体が設置されており、近づくと内蔵されたセンサーが反応してお喋りをしてくれます。(急に音が鳴るので、知らずに近づくとかなりビックリします)
ただ通り過ぎてしまう商店街ではなく、楽しみながら歩ける商店街なのです。





まんがロードを歩き、氷見市の藤子不二雄Ⓐ先生への愛の深さを感じたところで今回のお目当ての光禅寺にやって来ました。
旧氷見市役所(現在は駐車場)のお隣にあります。

思っていたよりも綺麗!
それもそのはず。光禅寺は昭和13年に起こった氷見の大火で全焼しており、本堂や庫裏、開山堂などを順次再建し、平成20年に山門が再建されたそうです。





すでにチラ見えしていますが、この山門をくぐると「忍者ハットリくん、怪物くん、プロゴルファー猿、喪黒福造」の石造が出迎えてくれます。

藤子不二雄Ⓐ先生のキャラクターを惜しみなく前に出している感じ、好きです。
藤子不二雄Ⓐ先生の聖地だということを、これでもかっというぐらい感じます。





これを見て、石の加工技術って凄いんだなという感想を持ちましたが、皆さんは何を思われたでしょうか?他に感想があったら私に教えて下さい。





喪黒福造をドアップで見たらこんな感じ。
怖いよね…小さなお子さんは遠目で見ることをオススメします。

有名漫画家の生家のお寺であり、その漫画家が生み出したキャラクターの石像があるお寺って、全国探しても珍しいのではないでしょうか?

氷見らしさと言えば…海、魚と言われますが、藤子不二雄Ⓐ先生も氷見らしさの1つと言っても過言ではないですよね。

氷見の皆さん。これからも、藤子不二雄Ⓐ先生と共に生きていきましょう。

ADDRESS 富山県氷見市丸の内1-35