こんにちは、見習い相談員の西田です。
「ドブネ」「テント」「カンコ」「テンマ」「ズッタ」「サンパ」、この言葉を聞いたことはありますか?
これらは全て、氷見で昔使われていた木造漁船の名前です。
今はFRP(繊維強化プラスチック)でつくられた漁船が主流となりましたが、昔の漁船はもちろん木製。
木造漁船の材料となる木も、氷見の山で採れるものを利用していました。
今回はそんな、氷見の木造漁船についてのお話です。
木製の船って実際に見たことありますか?日本の木造船は「和船」と呼ばれ、船大工さんが鑿や鉋を用いて、木の特徴を活かしてつくります。まさに職人仕事。
和船は江戸時代頃から全国へ広がり、用途や土地柄によって様々な大きさ、つくり方、名前が普及しました。それが時代と共に、西洋型の帆舟や汽船、エンジン動力船に置き換えられ、戦後にはほとんど見られなくなったのです。今実際に見られる場所といえば博物館ぐらいじゃないでしょうか。でも、氷見にはあるんです!現役の和船が!これは記事後半で詳しくお伝えしますね。
和船の構造は地域のよって多種多様。使われる木の種類や特性が地域によって異なるので、木を活かして船をつくると自然と構造も違ってくる、というわけです。木目を読んで船をつくる、そんなカッコいい船大工さんも和船の衰退と共に少なくなり、多くの方は現在主流となるFRPによる造船へ転換、もしくは廃業を余儀なくされました。現在現役の船大工さんは、富山県内では氷見にいらっしゃる方ただ1人ではないかと言われています。
帆を張って進む和船もありますが、氷見の漁業で用いられていた和船は「櫓(ろ)」と呼ばれる、長くて薄めの木の棒で船を操ります。操船方法は、ベネチアのゴンドラをイメージしてもらえるといいかもしれません。ゴンドラはオールを船横におろしていますが、和船は基本的に舟の後ろ、複数の櫓で操船するときは後ろ+横にオール(櫓)をおろします。船の縁を支点にし、櫓を水の中で左右に動かして進みます。ギーコーギーコーって感じで。
氷見の漁業で使われていた和船は、「ドブネ」「テント」「カンコ」「テンマ」「ズッタ」「サンパ」などなど。この和船の名前ですが、氷見では「テント」だけど富山県内の他地域では「アンブネ」「ツリブネ」の名称だったり、「カンコ」も他地域では単に「フネ」と呼ばれていたり、全国に「テンマ」はあるけど形が少しずつ違ったりして、ちょっと複雑。文章ではなく口承で伝えられたのか、漢字に直すとそれぞれ何パターンか存在します。もう、覚えきれません。
この中から、「ドブネ」・「テント」・「テンマ」の3種類を簡単にご紹介します!
「ドブネ」
3種類の中で一番大きく、漁獲用の和船の中でもかなり大型の船です。全長14~15m、使われる木材の厚さは約15mm。
操船するときは、6~8人が1人1本の櫓を操ります。とにかく大きくて重たい船、と覚えれば間違いありません。
船底が四角いので、荷物を大量に積むことができたそうです。満杯まで載せると、鰤を1200~1300本(!!)積めるほど。
氷見では昭和30年代末まで、定置網漁の網取り船として主力を担っていました。
ですが、頑丈で鈍重なドブネはエンジンを積んだ動力船に改良されることはなく、また材料となる杉の確保も難しくなったことから、昭和35年頃を最後に新造されなくなりました。
「テント」
テントはドブネと比べて軽快な船で、船底も三角形に近い形状で船足が早く、操船もドブネに比べて楽だったそうです。
最初は定置網漁の作業船や運搬船として使われていましたが、昭和初期には鮪漁の定置網漁に、昭和30年末にはドブネに変わって定置網漁の網取り船の主力となりました。大きさは全長7~15m、使用目的に応じて各種サイズがありました。目的に合わせて姿を変える、器用な子ですね。
大正時代にはエンジンを積んだテント型動力船がつくられ、昭和40年代末には木造のテント型動力船を模したFRP製漁船が一般的となりました。
「テンマ」
漢字は“伝馬”“天馬”と諸説ありますが、氷見では天馬と書かれているのをよく見かけます。ペガサス的な名前、夢を感じます。
元々はハシケ(大型船と陸の間を往復して荷物・乗客を運ぶ小舟)や荷船として使われていた船で、漁船として使われ始めたのは大正時代に入ってからではなかと言われています。
構造はテントと同じですが、テントよりもずっと小型で、全長は6m以下。軽くて扱いやすい船で、小さいテンマは船後ろに取り付けた櫓一本で操船します。
漁船としては主に、定置網漁の網取り船の周りの作業船として使われていました。
昭和10年ごろの氷見の漁業では、秋から冬にかけての秋網(鰤網)漁には「ドブネ」、夏の夏網(鮪網)漁では「ドブネ」と「テント」を併用、冬から春にかけての春網(鰯網)漁は「テント」を使用するのが主流だったそう。船の大きさや形状の違いは、漁獲する魚の種類と密接に関係しているんですね。
昔はこうした和船が漁業の主役でした。この和船をつくるための材料はもちろん、木。漁業が盛んな氷見ですが、その裏には豊かな山も大きく関係しています。
氷見の山で育つ杉は、強靭さと柔らかさが特徴。これは船をつくるのにとても適した特徴だそうで、和船が主流だった頃は、造船用として杉を育てていました。造船に使う木の選定・確保は、船大工棟梁に任せられていました。とても大事な仕事だったんですね。棟梁自らが氷見の山林に入り、造船に適した木を選び、持ち主と交渉し、木挽職人に現地で木材を切ってもらっていたそうです。「ドブネ」には杉の大木が、「テント」には曲げやすいボカ杉が多く使われていました。
ちなみに「テント」によく使われていたという「ボカ杉」とは、戦後に多く植えられた杉で、発育スピードがとても早いんです。「ボカボカ育って、ボカボカ儲かる」から「ボカ杉」という話があるほど(名付け方、ちょっと雑じゃないか…)。
船大工が漁船をつくるために山に入り、手が入ることで山は豊かな自然形体を維持し、豊かな山から流れる川の水によって里が潤う。古くなった漁船は陸で朽ち果て、山の自然へ戻る。和船、というより昔の漁業の形態全体が、海と山の関わり、自然の循環を象徴する存在だったんです。
昔は漁船だけでなく、浮きや漁具も山の材料でつくれらており、良い材料を育て活用するために、頻繁に人が山に入り、木も山もよく手入れされていました。ですが、今は山の材料が活用される場面も少なくなり、人が入る機会が減って森が手入れされずに荒れ、雪折れや風倒など被害が多発するようになりました。
和船がつくられていた時は漁業と林業の関係がいい具合にマッチしていましたが、今ではバラバラになった海と山の存在。ですが、ご紹介した「ドブネ」「テント」「テンマ」、最近氷見で復元されいるんです!
造船されたのは最初にチラッとご紹介した、富山県内唯一の現役船大工さん。おじいさんの代から造船屋を営んでいたそうですが、和船が途絶えた後はFRP造船の仕事をされていたそう。ですが、その間も船大工の道具の手入れや材料の管理は続けられていたのだとか。もうこのエピソードだけで惚れてしまいます。職人さんの手仕事やモノを大切にしていた時代への思いが!もう、ね!グッときます。
「ドブネ」が完成したのは本当に最近、今年頭のこと。本来のサイズは大きすぎるので1/2サイズでの復元となりましたが、木材の入手から乾燥(山から切ったばかりの木材は水分を多く含んでいるので1年ほどをかけて乾燥させて、やっと材料として使えるんです)、制作まで自らが手がけられました。
今回の「ドブネ」の制作は、高齢者の回想法に利用する目的が大きいそうです。元漁師さんや元船大工さんの高齢者がつくる過程を見学、制作工程を映像や写真でも記録しており、昔を思い出して認知症改善などに繋げる「回想法」に活用されています。
「テント」は全長9mサイズで復元されました。日本国内を見ても、このサイズの大型和船が現存する例はほとんどありません。制作したのは船大工さんともう1人、弟子入りという形でアーティストのお兄さんも加わりました。船をつくるだけでなく、技術を伝える目的もあったのでしょうね。
そして「テンマ」は船大工さんの手によって2艘、「テント」で弟子入りしていたお兄さんの手でもう1艘が造船されました。さらにアメリカ人の米国船大工さんも氷見に滞在しながら、「テンマ」の兄弟である「ズッタテンマ」を1艘造船しました。
氷見で和船の復元がこんなに盛んに行われている背景には、貴重な現役船大工さんの存在と、アートプロジェクトの活動があります。2006年から始まったアートNPOによる和船復活プロジェクト。「テンマ」復元の資金調達のために「ミニチュア天馬船レース」を行ったり、完成した「テンマ」を使って櫓漕ぎレース「テンマッチ」を開催したり。残念ながら現在はどちらも開催されていませんが、和船復活プロジェクトについて気になる方は『氷見クリック』『ヒミング』でググってみてください!
復元された和船は今も定期的に活用されています。
この春には、さくら咲く湊川を「テンマ」に乗って遊覧できるイベントが開催予定◎
近所のベテラン漕ぎ師たちが、情緒あふれるハッピ姿で操船してくださいます。
川沿いでは桜あんぱんやたけのこ、原木椎茸の炭火焼など春を満喫できる屋台や、琴の演奏もあるそうです!
ぜひ、復元された「テンマ」を体感してみてください。
ギーコーギーコーと揺れながらゆったりと進む木造の船、きっと楽しいですよ。
「テンマ」でのお花見遊覧イベント、「春 さくら 天馬船」についてはこちらの記事でご紹介しています。
氷見の春を堪能!春さくら天馬船イベント