みなさんこんにちは!
今回からは2回に分けて【氷見のひみつのひと】と題して東京の大学生である私が氷見で出会った素敵な方々にインタビューした内容をまとめていきたいと思います!
第一弾は、こちらの笑顔が素敵な74歳現役船大工「番匠FRP造船」の番匠光昭さんにお話を伺ってきました~!
ところで皆さん、1回目の記事で市立博物館を訪れたとき、館内に数多くの木造和船が展示されていたのを覚えていますか?
こうした船も番匠さんが市の学芸員さんなどから依頼を受け、修繕や作成をしたものです。
元をたどれば、縄文時代の丸木舟からおよそ7500年以上続いてきた日本の木造和船の歴史。各地で多くの和船が作られてきましたが、氷見のような日本海側の地域では太平洋側の地域と異なった「オモキ造り」と呼ばれる造船技術が育まれました。
船の種類については、以前にも記事で紹介しています。よろしければ「氷見の木造和船の話」をご覧ください。
木造和船造りが衰退する以前は木材を切り出す山のきこり・接着剤となる漆を扱う職人さん・のこぎりを扱う船釘を造る職人など地元の職人同士が繋がり、様々な人が協力しながら船を作っていたそう。
しかし現在主流の「FRP(ガラス繊維強化プラスチック)」製のFRP船を作る際は「問屋から材料を下ろして、造船所で船を造る」という単純な構図にならざるを得ないそうです。しかも、和船よりも格段に長持ちするため頻繁に修理をする必要がなく、FRP船が台頭してから船大工さん達は次々と職を失っていったそうです。「いやぁ進化したのか退化したのか分からんねえ」と番匠さんはからっとした笑顔で笑います。
自身もFRP船を中心に作っていた時期があるそうなのですが、化学製品独特の匂いよりも木の香りに包まれながら作業する方がやはり好きなのだとか。木材も氷見産の杉やあすなろを多く使うため、造る際に地元と一体になっていると感じるのがとても気持ちが良いそうです。
にこやかに船の説明をしてくれる番匠さん
造り始めたばかりの船。土台となる木の板を切り出しています。
ここ最近で一番印象的だった仕事としては、とある映画の撮影に参加したことだそう。
セットで使うために貸し出された和船を工房から現場まで運んだそうなのですが、スタントとして呼ばれた川の渡し舟の船頭たちが海の荒波での撮影に全く対応できていなかったため、監督の計らいであれよあれよと言う間に番匠さん自身が船頭役の服を着せられて撮影が始まり、結局映画の中に登場することになったとか。
「たまげたけど、主演女優の子を間近で眺められたからオッケーだね」とニカっと笑う番匠さん。思わず爆笑してしまいました。
ですが、それほど海で木造の船を乗りこなすのは難しいことなのだそうです。実際に沖へ出るのであれば空や風、星を正確に読む技術も必要となっていきます。
作業場の風景
また、1隻の木造和船を造るのに通常は木の乾燥を含めて1年ほどの時間を掛かるそう。現在は1年後までに計3隻の依頼が入っており、今年はかなり大忙しの年にになりそうだとのことです。
ちなみに1隻は名門・開成学園の伝統ある水泳部から。OBさんが海で日本泳法などの指導をする際に使用するそうです。10年前にも同部から依頼があり、その完成度に大満足したOBさんを中心に再び依頼を受けたのだとか。
そして残りの2隻の依頼は長崎県の五島列島から。「1年で3隻を一人で作るのはさすがに無理がよ」と番匠さんが伝えると、「それなら知り合いで見込みのある職人を弟子として行かせるから、二人で頑張ってくれ」と依頼者の方に言われ、引き受けることにしたそうです。
そんなこんなで今年の3月、つまりつい先日番匠さんの下にやってきたのがこちらで懸命に作業をしている須藤聖一さん。
高校で木工建築を学んだ後は京都でのこぎりの「目立て」の職人を10年ほど続けていましたが、今回の話を良いきっかけに氷見へ来ることを決めたそうです。
出身の札幌にほど近い石狩や小樽の日本海を見慣れていたため、氷見の風景にも親近感が湧くそう。番匠さんを「親方」と呼び、早くも師弟の絆が築かれつつあります。
目立て用の作業スペースを番匠さんの工房の一角に作ったとのことだったので、せっかくなので見せてもらうことに。
「目立て」職人の仕事はのこぎりの切れ味を蘇らせること。最盛期には素人には修復不能になったのこぎりが次々と持ち込まれていたそうです。
しかし、最近では使い捨てのこぎりが普及するにつれて活躍の場が減ってしまいました。須藤さん自身すら「いずれこの職業が無くなるのは目に見えている」と客観視するほど現状は厳しいですが、「それでも少しでも僕たちのことを頼りにしてくれる人がいるなら、最後まで自分たちは頑張りたい」とまっすぐな目で話してくれました。
昔から木造の船を作る船大工さんは自分の大工道具を自分で手入れし、また目立ての職人さんも切れ味を確かめるために木材を試し切りで扱ってきました。「のこぎりの修理」と「造船」。まったく別物に思える技術にも、実は少なからず繋がりがあります。
どちらも絶滅危惧種と称されるほど今や希少な技術ですが、「僕のように誰か一人でも繋いでいく人が必要だと思うし、時間をかけて出来ることを少しでも増やしていきたい」と話す須藤さん。
若い世代が減る一方の職人の世界では本当に頼もしい存在なのではないでしょうか。「身に付ける技術に天井はありませんから」と笑って話す横顔がとても爽やかでした。
のこぎりを手に「目立て」の仕事について語ってくれる須藤さん。
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趣のある薪ストーブ
ここで少し休息。船の廃材を利用した薪ストーブで沸かしたコーヒーをいただきました。
おちゃめな番匠さんとティータイム。
お茶を飲みながら、番匠さんが色々な話をしてくれます。一番印象に残ったのはご自身の過去についての話です。
番匠さんは元々栃木生まれ。親戚の家に養子に出されて以来、氷見で育ちました。
15歳で船大工だった父親に弟子入りするも7年後に大喧嘩。家を飛び出し、そのまま福井の造船所で3年間働いていたこともあります。父親に呼び戻されて再び働いたものの、数年後にまたもや意見が対立して大喧嘩。
この時は氷見市内に自分の工場を立てたことでひとまず事が収まりましたが、しばらくすると60歳近くになっていた父親が病気を患い、船を作り続けることが困難になりました。
とうとうもう何日も生きられないとなった時…「今度大きい船の依頼が入ったんだが、親父の工場を使っていいかい」と番匠さんが尋ねると、父親からは「ああ、自由に使ってくれ」との返答が。
―死の間際に、ようやく親子は和解することが出来たのでした。
番匠さんが74歳になった今も使う工房はまさに父親が使っていた場所そのもの。父親の死後移転することなく40年以上使い続け、多少の増改築を重ねながら現在の「番匠FRP造船」に至っています。
52年間の職人人生を振り返り、お父さんとの思い出を語ってくれました
昔から変わらずこの場所にある番匠家の工房。
不覚にもこの田矢、このお話を聞いた時にはさすがにうるっと来てしまいました。普段何気なく目の前を通っていた建物にそんな過去があったなんて…
そんな番匠さんに今後の夢を聞くと、「早く隠居したい」とのお答えが。えーこういう時は『一生現役』とかじゃないんですかと言うと、「だって疲れるんだもん (笑)」とお茶目に笑った番匠さん。いやー最近は次の依頼でやめようと思ったらまた次の依頼が来るのよーと心なしか嬉しそうに嘆いています。「でも、須藤くんみたいに若い人に教えるべきことはすべて教えたいね。それがきっと自分のやるべきことだから」と目をしっかりと見据えて話す様子からするに、番匠さんが現場を離れる日はまだまだ先の話のようです。
須藤さんの作業を見守る番匠さん。これからが楽しみです
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番匠さんがつくったテンマ船は年に一回、湊川沿いの桜並木が満開に咲くころに開かれるお花見の遊覧イベントに利用されます。
船に乗りながらお花見が出来るなんて、なかなか雅なコラボではないでしょうか?ちなみに私が工房を訪れた際に番匠さんが作っていた船もこのテンマ船でした。
今年の開催は4月11日、12日。
詳細が分かり次第またリンクを張ります。今後の情報も要チェックですね。
歴史と世代を越えて番匠さんたち船大工の想いが一心に詰まった「氷見の木造和船」。氷見に来た際にはぜひ一度実物を見ていってほしいと思います!
(参考文献)
氷見市立博物館「特別展 ドブネ復元-日本海沿岸の船づくり-」2019年